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「エンジニアリングの中心へ:セントラルエンジニアリング創業者の軌跡」

若かりし頃の 渡辺 早苗

エンジニアの未来編集部 島田です。
企業にはそれぞれのストーリーがあり歴史があります。当社の長い歴史の中での原点でもある、創業者のストーリーを今回はご紹介しようと思います。


ゲタ屋2階、社員4名から歴史ははじまった。

創業者の渡辺 早苗は、1935年千葉県夷隅郡大原町生まれ。
1953年高校卒業後上京し、旧石川島重工業(現IHI)のエンジニアリングに特化した子会社に入社。その時に配属された職場での業務は、鉱山やトンネル工事掘削に使用する削岩機を扱い、海外からの図面を翻訳やメートル法に修正するというものであった。

こうした中、旧石川島重工業の技術部長を当時務めていた機械技術の第一人者である「小栗 富士雄」氏の下で働くことになった。小栗氏は今日でも機械技術者のバイブルとなっている技術書の執筆者である。そのような一流の技術者に師事することで、技術力がみるみる向上。持ち前の明るさと粘り強さもあり、すぐに責任ある仕事に携わることになった。

しかし、広い視野で将来を考えたときに「このまま、案穏とはしていられない」という思いが芽生え、20歳のとき泰斗工業に転職。日立製作所亀有工場に出向し、重機などの建設機械の設計・開発に携わった。このころから独立に向け事業を興す野心に燃えていた。

25歳(1960年)11月に資金も事務所もなく、一人で「セントラル商工」を立ち上げた。社名の「セントラル」には、「日本の中心である東京で興した会社」という意味を込め、今までに得た技術や経験を生かし設計請負を生業とした。当時は、まだ法人登記もしていない個人事業であったが、半年後には業務実態と合わせるために、社名を「エンジニアリングの中心でありたい」という想いを込め「セントラルエンジニアリング」に改称。27歳(1962年)の12月には法人化を果たし、株式会社として大田区のゲタ屋2階を借り、社員4名で新たな歴史を刻むことになったのである。

当時の設計室

設立当初は、近代化によるインフラ整備が急ピッチで進められ、急速な経済成長期にあった。時代の波に乗るべく、ひたすら仕事を求め営業するために数駅前で電車を降りては、あと一社、あと一社と諦めることなく、絶対に新規のお客様を開拓するという一心で、飛び込み訪問を昼夜問わず続けていた。

ちょうどその頃、横浜市に竣工したばかりの松下通信工業に、もう後には引けない気持ちを抱き、資材部や購買部に飛び込んだ。しかし、小さな会社に仕事を出すわけもなく断られ続けた。それでも何度も何度も足を運び、何度も何度も頭を下げ「技術の方に合わせて欲しい」と懇願し続け、その思いに根負けしたのかわからないが、ようやく面会することができ、「人が必要な仕事がある」との言葉をいただけた。ようやく突破口が開けたのである。

このチャンスを逃さず、すぐに優秀なエンジニアを出向させると、結果と信頼を得ることができた。以降は多くの仕事を請け負うことになる。請負った仕事は「ダム監視制御装置やテレメータ装置」であり、当社が専属で携わったこともあり、売上に大きく貢献した。この松下通信工業との取引が転機となったのである。

世の中には素晴らしい会社があるが、会社が素晴らしいのではなく、そこに居る人達が素晴らしい

業容拡大が著しい松下通信工業は、事業部制を採用しており、売上がある程度の規模になると事業部に昇格させていた。日頃より「いい会社のまねをするべき」との信念があり、自社も事業部制を採用して、可能な限り経営を細分化することを決め、1964年9月に「機械事業部」と「通信機事業部」の事業部制を敷くことなった。

「世の中には素晴らしい会社があるが、会社が素晴らしいのではなく、そこに居る人達が素晴らしい」常々「いい会社のまねをするべき」ということを事あるごとに部下に伝えていた。ホールディングス体制になり、現在は事業部が統合されたが、旧エンジニアリング事業部(機械事業部)と旧通信機事業部の誕生である。

昭和30年後半より、エネルギー市場が急速に拡大し石油が主体となる中で、プラント配管設計に携わる人材が不足していることに着目し、プラント業界にエンジニアの出向を始めた。その機械事業部(旧エンジニアリング事業部)の設計請負が増加し、月商800万円(今の価値で8,000万円)従業員も80名規模となった。1965年8月に本社が手狭になり、港区の三田東急アパートに本社を移転した。

当時の仕事風景

順調に業容が拡大する一方で、エンジニアを集めるのには苦労した。しかしまたもや持ち前の先見性で目を付けたのが、当時の大手メーカーはほとんどが採用していなかった日本工学院専門学校であった。同校を何度も訪ね当社の魅力を熱く語り、多くの優秀な人材を得ることができたのである。また優れた人材を集めやすくするため、中小企業では当時珍しかった週休2日制をいち早く採用するなど、大手企業にも引けを取らない様々なアイデアを実行した。

優れた人材を採用するためには、会社のネームバリューを向上させることが必要

そのころには多くの技術者を抱えるようにはなったが、一人前に育ったエンジニアが転職するようになっていた。優秀なエンジニアの流出を防ぐため、長く働ける環境を整えるため、1967年10月に松下通信工業近くの農家の駐車場を借り、自社工場として生産を始めた。

当時の工場の前で

一方で、自社製品開発にも着手した。そこには、「優れた人材を採用するためには、会社のネームバリューを向上させることが必要」と考えたからである。

会社規模が小さい中、リスクを避けるため、競合他社がいない製品開発に取組み、一定の間隔で低周波を発振する周波数シンセサイザーを自社製品第1号として「ステップオシレーター」を開発し、松下通信工業や日本無線などに採用され「ダム監視制御装置」には欠かせない製品となったのである。

1966年以降、採用窓口を増やし多くの人材を集めることや、顧客対応のスピード化を図るため、多くの関連会社を設立した。

1974年2月に日創グループを形成し、各社が健全な会社として発展していけるようにした。

「家族に報いることができる働き方をしなさい」という言葉を常々発していた。現在の企業理念である「家族に誇れる会社であれ」に繋がる言葉である。

1977年10月には、弟である渡辺伸を2代目社長に託し、自身は会長として新社長をサポートすることとなる。

2011年11月には創業当時の仲間や社員を集め「創立50周年創業者を囲む会」を開催した。以後、相談役として、当社の更なる発展を後進にゆだねたが、2019年(平成31年)3月12日に永眠した。享年84歳であった。今では考えられないが、とても豪快な創業者であった。

最後に、文中で紹介できなかった創業者が残した言葉をいくつか紹介します。

晩年の 渡辺 早苗
  • 「会社の売上は、お客様のからのお役立ち料と思いなさい、売上が少ないとは、それだけお役立ちが少ないということ。」

  • 「利益は、信頼料だと思いなさい、利益が出ない商売は、お客様から信頼されていない証だと思いなさい。」

  • 「会社の発展なしに社員の幸せはない。」

  • 「どんなに頭が優れた人でも、行動する人には勝てない。」

セントラルエンジニアリングの沿革はこちらから
https://www.central-eng.co.jp/company/history/

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